近年、回顧展や書籍の刊行が行なわれ、歴史化の作業が進められている高松次郎(1936~98年)。本展は、「高松次郎ミステリーズ」(東京国立近代美術館、2014年12月2日~2015年3月1日)に続く、大規模な回顧展である。
本展の特徴は、約40年間に及ぶ高松の制作を、内的論理に従って自己更新的に展開する一つの閉じた体系として提示している点にある。それを支えるのが、約280点に及ぶドローイング、書籍・雑誌の装幀、絵本の原画など、紙による膨大な仕事の紹介だ。つまり、署名された完成作品/補完物としての習作・下絵というヒエラルキーを設けず、ドローイングや紙の仕事を高松の基底面と捉え直している。
こうした意識は、キャプションと展示構成の2点において如実に表われていた。まず、キャプションには、「○○のための習作・下絵」といった表記が記されていない。ドローイングを完成作の下部構造として位置付けるのではなく、その時期の高松の関心に応じて、「影」「遠近法」「単体」「複合体」「平面上の空間」といったシリーズ名が冠せられている。また、各シリーズごとの展示スペースでは、絵画、立体作品、紙媒体のドローイング、書籍の装幀、マケットなどが並置され、一つの関心軸を共有する連続体として同じ空間内に同居する。こうした展示の配慮によって、様々な媒体による制作物が相互参照し合う一つの場が開かれ、一つのシリーズとして結実し、さらに各シリーズを年代順に追うことで、高松の思考の変遷を跡づけている。
そこから見えてくるのは、視覚の制度に対する問い直しの姿勢と、次のシリーズ展開への萌芽が前シリーズの制作物の中に既に書き込まれていたことである。例えば、「影」のシリーズ(1964~66年)と「遠近法」のシリーズ(1967~68年)は、三次元の空間に存在する物体を二次元の平面上に置換する表現方法について問題意識を共有しているが、壁に投影された人物のシルエットを描いた作品で始まる「影」のシリーズは、次第に複雑化し、複数の光源によってできた影が同一画面内に描き込まれた作品が登場する。ここで、光源=一点透視画法を成立させる主体の視点の比喩と考えるなら、光源の複数化とは眼差しの複数化であり、それは続く「遠近法」シリーズにおいて、グリッドが規定する遠近法的空間の安定を破綻させていく。特に、一点透視画法に則って表現された二次元のテーブルと椅子を三次元化するという転倒をはらんだ一連の立体作品では、(画面内の光源ではなく)観客の眼差しの空間的移動によって、像が生成/変形/解体され、「単一の絶対的な視点」の虚構性が暴かれる。そして、こうした遠近法的空間の安定性や均質性の解体は、グリッドそのものを歪ませる操作へと展開していく。《波》と題された立体作品とドローイングでは、波打つ水面下のタイル地を見ているようにグリッドが歪められ、続く「単体」シリーズ(1969~71年)における、ネットや布を弛ませた立体作品へと繋がっていく。
見ている対象の自己同一性への問いは、「単体」シリーズへ引き継がれて新たな展開を見せ、イメージ、言葉、物質、それぞれの位相において追及される。写真の複写、トートロジーを成す言葉、砕いた石や紙の破片を元の位置に戻した立体や紙の作品である。
一方、グリッドを保持しつつ斜線やコンパスの曲線を加えることで、豊かな幾何学的構成の可能性を追求したのが「平面上の空間」のシリーズ(1974~82年)であり、これは最晩年の絵画作品である「形」シリーズ(1983~97年)を準備することになる。「形」シリーズでは、曲線の密度や色彩がより複雑さを増して絡まり合い、鳥や魚、植物を抽象化したパターンのようにも見える。やがてそこからいくつかの「かたち」が選び出され、最終的に《形/原始》と題された絵画群では、巨大なサイズや赤と黒の強烈な色彩の対比も相まって、シンプルであるがゆえに原始的な畏怖の感覚すら覚えるような強いイメージが出現する。
このように本展は、生涯を通じて制作された紙の仕事の精査を通して、高松の思考の内部で駆動していた論理的展開を立体的・多面的に再構成しようとする試みである。それは、いわば思考についての思考であり、メタ的装置としての性格を強く持つとともに、完成作/補完的存在としてのヒエラルキーを排して、相互参照を成す一つの総体として読むことを観客に要請し、巨大な「アーカイヴ」としての展示空間を成していた。
・・・・・・
「高松次郎 制作の軌跡」
期間:2015年4月7日(火)~7月5日(日)
会場:国立国際美術館
・・・・・・